『龍ヶ崎』の由来 | - 2005/06/14
- 中世後期(封建制度時代後期)、龍ヶ崎地域には、龍崎(りゅうがさき)氏という領主がおりました。
龍崎氏(りゅうがさき)を名乗っているからには、この龍ヶ崎の地と何らかの関わりをもっていたはずですが、現在残っている龍崎氏関係の史料を見では、鎌倉公方の家臣としての存在を示すものがほとんどです。 室町時代、将軍足利尊氏の子の基氏が鎌倉公方と言われ、鎌倉に派遣されて、関東・東北を統轄する役割を担っていたそうです。 初代の基氏から氏満・満兼・持氏と続き、持氏の時に永享の乱で一旦滅びますが、持氏の末子の成氏という人が後に復活して古河公方となります。 龍崎氏は、この持氏の直属家臣、つまり奉公衆であったようで、その頃の龍崎氏の拠点は、鎌倉方面にあったと考えられます。 おそらく、ある時点で龍ヶ崎から相模国の方へ移住し、いわば鎌倉在住の存在となったものと推定されます。 また、龍ヶ崎城は正式名称を【龍が峰】と言い、龍の頭が突き出た地形から龍が峰、龍ヶ崎と言う由来もあるそうです。
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