救急医療情報システム
2005/06/16

茨城県では、救急搬送をより迅速化するため、救急医療情報システムを更新し、3月1日から運用を始めました。
インターネットを活用して県内の救急医療機関363ヶ所を結び、患者受け入れの可否について、リアルタイムに近い情報を集約、各消防本部からの問い合わせに対応するとともに、茨城県民からの電話照会にも応じてくれるそうです。
また、県民向けのホームページも開設され、救急医療機関に加え、歯科医師を含めた一般医療機関の合計1867ヶ所の診療科目や診察時間、連絡先、地図など基本情報が提供されるそうです。
医療機関の案内は:029(241)4199
HPアドレス http://www.qq.pref.ibaraki.jp
携帯サイト  http://www.qq.pref.ibaraki.jp/kt 

『龍ヶ崎』の由来
2005/06/14

中世後期(封建制度時代後期)、龍ヶ崎地域には、龍崎(りゅうがさき)氏という領主がおりました。
龍崎氏(りゅうがさき)を名乗っているからには、この龍ヶ崎の地と何らかの関わりをもっていたはずですが、現在残っている龍崎氏関係の史料を見では、鎌倉公方の家臣としての存在を示すものがほとんどです。
室町時代、将軍足利尊氏の子の基氏が鎌倉公方と言われ、鎌倉に派遣されて、関東・東北を統轄する役割を担っていたそうです。
初代の基氏から氏満・満兼・持氏と続き、持氏の時に永享の乱で一旦滅びますが、持氏の末子の成氏という人が後に復活して古河公方となります。
龍崎氏は、この持氏の直属家臣、つまり奉公衆であったようで、その頃の龍崎氏の拠点は、鎌倉方面にあったと考えられます。
おそらく、ある時点で龍ヶ崎から相模国の方へ移住し、いわば鎌倉在住の存在となったものと推定されます。
また、龍ヶ崎城は正式名称を【龍が峰】と言い、龍の頭が突き出た地形から龍が峰、龍ヶ崎と言う由来もあるそうです。

牛久沼の由来
2005/06/13

若柴の金龍寺に昔、知雲という大食いで怠け者の小坊主がおりました。住職の注意にも耳をかさず、勤めもおこたり毎日ゴロゴロ。大食いを続けるうちにまるまる太って、とうとう牛になってしまいました。牛になった小坊主は自分のしていたことが恥ずかしくなり、牛久沼に入水しようとします。それを哀れに思った住職は、牛の尻尾を引っ張って引き戻そうとしますが、ぷつんと切れてとうとう水底へ沈んでしまいました。住職は残った尻尾を持ち帰りねんごろに供養。その尻尾で払子をつくり、寺宝として残しました。
それからというもの、入水した沼は「牛を食った沼」として牛久沼と呼ばれるようになったそうです。「なまけて食べてばかりいると牛になってしまう」という教えも、このことに由来しているそうです。

うな丼の始まり
2005/06/05

国道6号線を車で走っていると、牛久沼あたりで、『うな丼発祥の地』と書かれた看板やのぼり旗、また、うなぎ屋さんを見かけます。
昔、大久保今助という人が故郷の水戸へ帰る途中、牛久沼の船着場近くの茶屋で好物のうなぎの蒲焼きと、丼飯を注文したそうです。
いざ食べようとした時、「船が出るぞ〜」の声を聞き、あわてた今助は、丼飯の上に蒲焼きの皿をかぶせて船に飛び乗ったそうです。
対岸に着いて食べてみると、蒲焼きは熱い飯に蒸されて柔らかくなり、タレは飯に程よくしみ込んで、絶品の美味しさだったそうです。
今助が江戸に帰る時、丼を返すために再びこの茶屋に立ち寄り、この話を伝え、『うな丼』が誕生し、牛久沼の名物となったそうです。

龍ケ崎市の花『ききょう』
2005/06/05

永禄11年(1568年)、江戸崎城を拠点としていた土岐治英の次男・胤倫(たねとも)が龍ケ崎城(龍ケ崎二高のあたり)に入り、20年余にわたり龍ケ崎地方を治めたそうです。
その土岐氏の家紋として使われていたのが『ききょう』だったそうです。
このことから、龍ケ崎市としてなじみが深く、花も清楚で美しいことから、龍ケ崎市の花とされたそうです。

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